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金曜日, 10月 06, 2006

チャンプと呑む

僕が東大のオフィシャルを大昔にやっていたときにインカレロングで優勝した太田と呑んだ。たまたま、地下鉄の駅で何年ぶりかにばったり会い、飲みに行く約束をしていたのが実現した。

麻布でオリエンテーリングをしていてインターハイのチャンプにもなっていた太田は入学当初から注目されていた。しかし、オリエンテーリングに対してそれほど情熱を持っているようには見えず、うまくはあったが強さは感じられなかった。2年、3年とショート(当時はミドルでなくショートが行われていた)で入賞し、リレーで団体戦メンバーになっているにも関わらず、どこか頼りなさがあった。それが4年のときはがらりと変わり、「強さ」が出てきた。もちろん成績も良かったのもあったが、オリエンテーリングのアプローチが変わっていた。真剣勝負に臨む侍のような。

そして、秋のショートインカレでは3年連続の入賞(3位)を果たし迎えた春のインカレ。その年の東大は、エース太田がいながらも、実力的には京都、東北を大きく下回るとされ、団体戦の入賞もどうかと言われていた。そんな中、彼は個人戦を安定した運びで、優勝。一方、翌日の団体戦はメンバー選びで紛糾。事前に決まっていたメンバーは個人戦ではふがいないレース。それともようやく力を出し個人8位の4年生か。リレー選手にはなれなかったが一年間チームをひっぱてきた信頼の厚いキャプテンか。メンバー表提出する前に大議論になった。このとき、結局もっとも影響力のある一人であった太田をはじめ、リレーの他のメンバーから強い意見は出ず、当初のメンバーそのままでの出走となったのであった。

リレーはメンバー全員での勝負であり、まあ、4人(当時は4人であった)走れば誰かはこけて、誰かはいいレースする、というのが僕の考えである。全員が良いレースをすることは稀である。誰か一人がこけたときでも他のメンバーでしっかり実力どおり走れるか。メンバー全員の結果が大事なのである。そして、この奈良インカレではたまたま、メンバー選びで紛糾した結果の大滝がこけてしまった。1走で入賞が厳しいと思わせるほど遅れてしまった。しかし、その後、2走、3走でなんとか盛り返し、エース太田に希望を託した。それでも確か、入賞圏外からの出走だったと思う。

太田は期待以上の走り、中間までに3位に上げる快走。しかし、実はそのときに勝負は決していたのだった。1走がポストをスルーしていたのだった。

太田は僕が今まで見てきたランナーで印象の強い一人だ。4年のときに感じられた「強さ」が特に印象に残る。そして、同時に思い出すのはその団体戦。あのとき、彼は、思ったほど落胆していなかった。それはどこか、やりきった感があったからなのか。

そのときに感じた「強さ」を太田に聞いてみると、オリエンテーリングを辞める、そう決めて取り組んだ一年だった、だからかもしれない、と語ってくれた。同時にそれは、中学から人生の大半を占めていたオリエンテーリング、そしてそれに頼っていた人生からの脱却でもあったと。

4年生がインカレで発揮する力、それは競技としての集大成としての決意があるから。太田の場合は、更にそれまでの人生を大きく変えるための決意もあったのかもしれない。それが彼を侍たらしめていた、そう思う。